トゥイッターで丼にご飯粒をびっしり残した状態でご馳走さまする人が無理だというトゥイートがバズっていたので、あることを思い出した。
それは、まだ読書くんにブロックされておらず、2人でサシオフ(今風に言えばエンカだろうか)を繰り返していた時代のことである。秋葉原のすた丼で食事をしていたら、彼の丼には、上のと全く同じように、びっしりと米粒が張り付いていた。
その時あたりから、「もしかしたら、お椀にご飯をびっしりとはりつけた状態で食事を終えることは、上級国民の流儀なのかもしれない」なぞとゆうことを考えはじめるようになった。
この男未来ワーク、家庭では、ご飯に関し、「お百姓さんが作ったご飯は米粒一粒残さず食べなければいけない」とママから教わったし、お出しいただいたものは有り難く完食する、ということは、人生で大切にしている数少ないことの一つであった。
だが、労働者になったあたりから、雲行きが怪しくなってきた。もしかしたら、今まで信じ抜いてきたこのポリシーは、愚かなポリシー、卑しいポリシーだったのではなかろうか。
まず、真の勝ち組であるデイトレーダーの読書くんがご飯粒を丼にびっしりと付けたまま残していたし、会社で働き始めてから、帰国子女の後輩だったナオンに「◯◯さんって、残すという概念が無いですよね」と指摘を受け、「え?」ってなった。
それに、トゥイッターでも、上級国民らしきトゥイッタラーが、ご飯を一粒も残さず食べるということは、貧乏じみていて、見てられないなどとゆっていて、それに多くの人類が同調していた一幕を目にしたことがある。
時がたつごとに、だんだんと、一体なにが正解なのか、分からなくなってしまい、アイデンティティがクライシスしてきた。
これは、もしかしたら、中学生か高校生時代に、アスペルガー症候群を知って、今までの自分が崩れ去ってしまうほど受けた衝撃に匹敵するかもしれない。もうダメだ。一体あと何回、この、もうダメだ、を味わったら、ボクは、コンカフェキャストとセックスできるんだろう。