トゥイッターを眺めていると、差別は良くない、差別を辞めようというスピーチが激化しており、その対象は、とうとう、「キモい」ということに対してまで拡大してきたように見えるが、正直、困ってしまう。
ボクは、一部のオタクには自分たちを第三者目線でみて笑い飛ばす、自虐自嘲の文化というものが根付いており、そんな中で中高時代を過ごしてきたため、「オタクはキモくてナンボ」「キモいは褒め言葉」というのを最も大事なこととして、生きてきた。つまり、我々は高度な精神性、ユーモアセンスを兼ね備えた新たな人類なのだぞと、そんな気持ちでいたんだ。
そして、すき家で三種のチーズ牛丼を頼んでそうな顔としていてバズっていたイラストのオタク、通称「チー牛」も、そんな文脈の中で誕生したものと解釈しており、ボクはそうやって楽しんでいた部分があるのだが、ある日、トゥイッターで顔が冴えないキモい人をチー牛と馬鹿にする差別は辞めようというようなトゥイートを見かけ、虚をつかれた思いがした。
そういうユーモアは、皆んなの平等と引き換えに廃れてしまうのかなぞと考えると、会話が出来ない、女にモテない、運動神経悪いという男が唯一楽しむことの出来ていた精神的遊戯も出来なくなるため、とうとう、残された楽しみは、メスイキか、マネーの虎に出てくる社長の物真似とかしてYouTubeにアップロードするぐらいしかなくなってくる。この世は地獄か。